前回のおはなし
高任地区から伸びるトロッコ道は北沢地区につながる。
昭和15年に完成した北沢浮遊選鉱場は、江戸時代のズリからも金銀を再回収するという世界初の設備。産出量が昭和の戦時に跳ね上がるのも、この施設があってこそ。
むき出しのコンクリートしか残ってないけれど、ここに最新鋭の設備があったわけです。広い・・。
今も残るレンガ造りの建物は発電所の発電機室。
手前の川のところをトロッコレールが海まで運んでいた。ちなみにこの川、江戸時代の古い文献を見ても濁川というのだけれど、上流の採掘から始まって、採掘→破砕→選鉱→精錬と下流に進んでいくわけで、今はきれいな清流だけど、どんだけ濁っていたんだろう、と思う。時代が時代なら公害問題もいいとこだろうな・・。
今も残る50mシックナー。こちらも昭和15年完成。搗鉱場から排出された泥状の金銀を含んだ鉱石を水と鉱物に分離、濃縮装置。
キューポラひとつとっても、ここが一大工業地帯だってことがわかる。昭和27年に縮小ってことは、実質12年しか使ってないってことか。
相川郷土博物館で古い写真とかみていると、廃墟か遺跡かというようなこの空間にプールがある時代がある。空間再利用なんだろうけれど、廃墟に囲まれたプール。いいなあ。
北沢地区からトロッコレールはさらに伸びて、港へと出荷。大間港。
一部私有地のようだけれどパネル資料がたくさんあってよかった。港周りは公園整備されててしみじみと港を見ることができる。
さらに佐渡奉行所跡や京町通りを歩いているともう夕方。あれ。もう夕方。夕食を食べに一度宿に入ります。そして出直し。
佐渡は外壁を板壁にしている家が多い。新しい家も板壁。防腐剤入りの塗装で何度も塗り重ねていると思われる様は、塩害対策だろうと思う。焼き板にいたってはさらに風情がある。でもこの景色すごくよく知ってる。瀬戸内の景色にそっくり。船大工が多かったという宿根木の町並みが有名なようだけれど、そこまで行かなくてももうそこらへん板壁の家づくり。うんきっと、これが風土と合う家づくりなんだろう。
夕食を終えて、再度、北沢浮遊選鉱場へ。夜間ライトアップは宿にあったポスターで知ったのだけれど、GWから10月いっぱいまでやってるとのこと。7色ライトアップはちょっと異様だけれども、これはこれで面白い。
帰りにフェリー出港まで時間ができたので、佐渡市立両津図書館で佐渡の古い写真集とジオサイト資料を読んだ。
佐渡金山というけれども、実際には銀も銅も含む鉱山で、それらは3000万年前の火山活動に由来するという。日本列島ができる前、大陸時代の火山活動。
大陸から分離していって日本列島が形になってきたのが2000万年くらい。まあその理屈だと日本のどこでも金がとれてもよさそうだけれども海上にあって見つけやすかったからこその金鉱脈であって、海上に出てくるからには隆起したってことか。と調べていくと、佐渡のジオサイト資料にちゃんと書いてあった。
プレートテクトニクス理論でいくと、日本は4つのプレートが衝突して構成されているというけれども、どうもこの辺りにはその大きな4大プレートとは別に、佐渡島マイクロプレートというのがあって、両側のプレートから押されて隆起しているらしい。
というので地理院地図を見てみたら、ほんとに隆起してた。(白丸囲みの部分が皺状・帯状に隆起)
by国土地理院
佐渡は二つの島(山)が寄り添って誕生したというけれども、海底には島になりきれなかった山が同じように並んでた。
あ、弥彦山もきっと同じ理屈なんだ。だからあんな海岸線にいきなり山があるんだ。そういえば弥彦山にも銅山トンネルというのがある(あとで調べたら間瀬銅山というのがあった)。そして燕市三条市の銅産業につながるのか。と一人納得。
そういえば「史跡佐渡金山」の展示資料室で鉱脈が花びらのようだと表現されていて、わあ!と思って写真を撮ったんだった。
白い部分が金銀鉱脈。プレートが両サイドから押されて、広がるように隆起する様、に見えなくもない。
きっと天然ガスや石油が出るのも同じ理屈に違いない。新潟すごい。
あー昔教科書(たぶん光村図書)で読んだプレートテクトニクス理論の説明文、読み返したい。