写真は、2015年11月の足尾銅山。20年ぶりくらいの再訪でした。
20年前に「あの教科書に出ていた田中正造の足尾銅山」と思ってテーマパーク「足尾銅山観光」に行ったときには、田中正造の田の字も見つけられず、従業員を守るために防塵マスクとか短時間交代労働とか、ちゃんと対策してたんですよ!という説明パネルばかりで、その会社第一主義姿勢にえらい衝撃を受けたものでした。そしてはげ山におののいたものです。
足尾砂防えん堤は昭和30年完成。流出する土砂を食い止めるダムは7段にもなる。足尾銅山に緑が戻ってきている、というニュースを聞きつけて行ってみたのだけれど、季節が悪かったなあ。でも緑が回復しているのは明らかで、こんなにも・・!と感慨深くなりました。田中正造の説明パネルも1つ見つけられました。
足尾環境学習センターに行ったら、前年の2014年5月に平成天皇が足尾を訪問されたという記事が出ていて、この20年利根川流域に住んでいたというそれだけの私でも、緑の復活とともに田中正造の直訴がここにきてようやく終結した気になったのでした。
まあ鉱滓ダムは現役ですし、何も終わってはいませんが。
*
写真は今年5月の愛媛帰省で行ってきた別子銅山。見える範囲全部はげ山になって台風による土砂崩れで大災害もあったという。
別子銅山は昔っからある観光地で、テーマパーク化したときに一度行ったことがある。「ウーパールーパーがマイントピア別子にやってきた!」で宣伝していたという同年代の人が聞けば嗚呼!というような時代。・・すらすっかり忘れた頃に「東洋のマチュピチュ」というよくわからないキャッチで5年ほど前から東平(とうなる)地区を売り始めた。
離合甚だしい四国の道をレンタカーで行くのはいやなのでツアーに参加。バスで20分ひたすら登るのはマチュピチュ感ある。行った先の遺構は少ないけれども、鉱山に行けば必ず思い出す「ラピュタ」感がある。別子銅山の閉山3年前に完成したという大斜坑の地図も必見です。
索道基地跡
そしてもうびっくりするほど、住友万歳なツアー内容でした。はげ山に緑を復活させるための部署が今の「住友林業」、亜硫酸ガスの無公害化対策の部署が今の「住友化学」エトセトラと、枚挙にいとまがないので逆に納得する。
ああこういう話を聞くと、日立の大煙突は、あれはあれでとても成果を挙げたのだ、と思い知らされたのでした。
*
日立市の大煙突は、常磐道を走っていれば気づく。ずいぶん古くて大きな煙突があるなと思っていた。最初に日鉱記念館に行ったのは2013年だったと思う。大煙突完成は大正4年。平成5年に倒壊する前までは155メートル超という、今の3倍もの高さを誇ってたらしい。日鉱記念館には書物の資料が全然ないので、日立市の郷土博物館や図書館にも行ってみた。正直大煙突はひたすら薄めるだけだと思っていたけれども、それでも絶大な効果を発揮したようだ。
別子銅山が四阪島に製錬所を移したのが明治38年だけど、これはかえって煙害を広範囲に広げる結果となっており、ここらへんが瀬戸内と太平洋の違いだなと思わされる。
結果として亜硫酸ガスの無公害化は別子銅山の方が対応は早く昭和14年。ちなみに足尾銅山は昭和31年。日立鉱山が亜硫酸ガスの完全な無公害化を達成するのは昭和47年なのでむしろ遅い方なのだけれど、大煙突がいかに人々の心の支えになってたかをおもんぱかるのです。
写真は先週行ってきた日鉱記念館。見るのは2回目だけど、必見の「日立鉱山の鉱床と坑道の透視図」。アリの巣みたいな坑道の総延長は700km。鉱床を求めて右往左往している様もよく見て取れる。
日本四大鉱山に数えられるほどになった日立鉱山(前身・赤沢銅山)だけれど、断層にぶつかり鉱床が見つけられなくてまったく掘れなくなった時があったというから、鉱床を探すのはかなり大変だったろうと思う。
日鉱記念館には坑道が再現されているのだけれど、再現で置いてある岩がもう、ほんとにキラキラしていて!こんな岩を見せられて、掘れば掘るほど金になると言われれば、そりゃ神々しく見えるだろう、と想像する。
今、JX金属がチリで掘ってる銅の含有量は1%だという。都市鉱山のレアメタル含有量は3%と言われるから、リサイクル推進すべし、です。守谷市もレアメタル回収がんばってますよ。
参照:不要になった小型家電で、東京オリンピック・パラリンピックのメダルを作る「都市鉱山でつくる!みんなのメダルプロジェクト」に参加しています
奥が大煙突。手前は阿呆煙突。
というわけで残りひとつの秋田の小坂鉱山にもそのうち行ってみたい。