ひな菊と黒い犬

まあまあそこそこほどほど

震災遺構・山元町立中浜小学校へ行って考えたこと

福島県道・宮城県道38号相馬亘理線
県道38号は、東日本大震災による津波でほぼ全線に亘って被災。

仙台からの帰りに「震災遺構・山元町立中浜小学校」を見に行くことにした。
学校へ行くまでの道がやたらまっすぐな道路で、これは第二堤防?と思っていたら、元JR常磐線の跡地だと、説明されて知った。
高さ5 - 7mに盛り土されている。
海岸沿いの防潮堤に次ぐ、第二線堤防。
それは、内地を守るという以上に、水平避難の際の逃げる時間を稼ぐため、であると思われる。

2m嵩上げ
中浜小学校は、海岸線から400m。
水平避難ではなく垂直避難を選んだ学校だ。
県道38号、すなわち元JR常磐線のすぐたもとにあった。
請戸小学校に行ったときに、1.5km走るという即断が私にできるだろうか、と思った。
水平避難ができないなら、垂直避難をするしかない。
nagareru.hatenadiary.org

中浜小学校は浸水想定区域内で、地震津波の防災訓練(水平避難)を毎年していて、そしてそれでも垂直避難を選んだ。
それが「宮城県への津波到達まで10分」というテレビ情報だ。
10分!
防災訓練では津波到達まで50分を想定していて、避難には20分かかることがわかっている。
校長は間に合わない、と判断した。
この即断は、大震災2日前に震度3の地震と0.5mの津波注意報が発表されており、大震災前日に管理職会議で「避難先を津波到達予想時間で判断する」と確認していたことが大きい。訓練通りにいかないかもしれない、という予想をしていて、それに対して合意が得られている。
即断を後押しするのは、他者との合意なのだな、とここでもわかる。
(結果から言えば即断した結果が水平避難でも間に合った)

津波浸水深
青い看板が津波の浸水深。もはや「深さ」ではなく「高さ」だなと思う。
平成元年に建てられた新校舎。
住民の声を反映して敷地全体を2m嵩上げしたそうだ。
住民避難を想定した外階段が3か所もあり、さらに外階段やベランダは、沖縄の「花ブロック」のように風が抜けるようになっている。今となってみるとこれは津波の水が抜けるように、津波の衝撃を和らげるようにしてあるようにしか見えない。

図書室
外から見るだけだと無料だけれど、管理棟で400円払って中も見ます。
図書室が震災関連の展示室になっていて、とても丁寧に、「どういう判断をどの時点でどう行ったか」という解説がしてある。
興味深いのは、6kmほど離れた隣の山下第二小学校との比較。
山下第二小学校は海岸線から300m。
中浜小学校よりさらに海に近いけれど、浸水想定区域外(当時のハザードマップでは浸水しない)。
それから、規模感。中浜小学校は児童数59名。山下第二小学校は202名。
水平避難は、車によるピストン輸送をしている。
最後に残った山下第二小学校の校長は2階にいて助かったそうだ。
https://www.pref.miyagi.jp/documents/17564/12384.pdf
山下第二小学校との比較

それにしても図書室が明るくてかわいくて驚いた。
こんなに明るいと本が焼けてしまうとか、つい思ってしまうけれど、小学校の本は保存ではなく消耗してなんぼ、という世界なのだろう。
窓が広く天井が高い。
請戸小を見た時も思ったけど、平成に立てられた学校ってこんなつくりなんだ、と驚かざるを得ない。いわゆる教室をつなぐ廊下は私が知っている廊下の倍くらいの幅があり、多目的スペースとして使えるようになっている。

中庭
中庭があるのも驚いた。小屋根かわいい。
屋上に避難した先生は、水位が下がっていくのをこの中庭の水位で確認したのだそうだ。
地図や写真を見ると、今はない体育館の大きさがわかる。
児童数からするとかなりの規模で、住民の避難所になることも想定されていただろうと思う。
体育館に何かあるかもと男性教員で探しに行ったのが日没後。
毛布が真空パックされていたというのも、防災にお金をかけることができた結果だろう。
氷点下となる一夜にどれほどの僥倖だったかと思う。

航空写真
新校舎新築当時の航空写真と思う。
校舎だけでなく、敷地全体が嵩上げされたことがわかる。
これにより救出ヘリが着陸できるスペースが確保されたそうだ。
色々勝手に見ていると、係員が傍について説明してくれる。
(我々は正直こういう係員とのコミュニケーションが苦手だ)
でも係員がいないと避難した屋上の「屋根裏倉庫」(撮影禁止)には行けないので、言われるまま従う。屋上への階段は資料室の中にこぢんまりとつくられており、当時は手すりも片方しかなかったそうだ。屋上に行くのは施設点検の業者か先生だけで、子どもたちは屋上の存在すら知らなかったという。
まあそうはいっても屋根裏倉庫には運動会や学芸会で使う季節行事の道具が置かれていたというから、高学年の子は知っていただろう。こういうとき、縦関係って大事だなと思う。屋根裏があると知ってること。知ってる人がいるということ。
www.miyagi-kankou.or.jp

屋根裏倉庫
避難した屋根裏は黒い四角の枠のところ。
となりの機械室(グレーの四角部分あたりと思う)と区切られており、機械室に倉庫にあったプラケースを設置して簡易トイレとしたのだそうだ。一晩でもトイレは大事だ。
あるものは何でも使う、というより、倉庫に物があってよかった、とさえ思う。

管理棟
管理棟の外看板。
旅行先では、避難経路を確認するようにしている。
ホテルや博物館などの建物だけでなく、ロープウェイやケーブルカーの乗り物や、駅や商店街なんかでも。避難経路や避難場所はさりげなくどこにでも確認できるようになっている。

避難経路
車避難の場合は、とりあえず国道6号まで行け、というルートになっていた。
6号ってすごいな。昔からある街道というのは安全が確立されている。
徒歩避難の場合は神社になっていて、係員に訊くと、道路に上がると赤い鳥居が見えますよ、とのこと
「波分神社」だったんじゃないかと言われているそうだ。

道路から天神社
波分神社!
山と海との境界線にあるような場所を「波分」とか「波除」と言っていて、いわゆる津波が契機となって建てられた神社ではなくても、ここまでは水が来る、これ以上はこない、ということがわかる神社は多い。
最近だと、諏訪大社上社本宮の一之鳥居が波除鳥居になっていた。
nagareru.hatenadiary.org

天神社
あれか・・・10分でいけるかな。行ってみよう。

reform-pikaichi.com

鳥居前まできた
津波の時には走ってるかもしれないけれど、走れないかもしれないから、いつも通りの歩調で鳥居前まで来た。
掲示通り10分くらい。
掲示には標高20mてあったけど、20mもある?

天神社階段
鳥居をくぐるとさらに上に上がる階段があった。
お、これは標高20mくらいありそう。
つまり、この階段の途中までは津波が来たということだ。

神社
本殿と薬師堂とふたつあって、雨はしのげるけど、それくらいかな・・・。
係員のお姉さんが、手入れはされていなくて整備は不十分と言っていた。
トイレもないし、夏は虫も多い。
神社は「天神社」だった。菅原道真、いわゆる雷様だ。
稲作や漁業関連で祀られたに違いないから、津波と直接縁があるわけではなさそうだ。
でも、調べたら神楽もあるくらい、地域のかなめとなってる神社だ。

鳥居から振り返ると学校
鳥居まで戻ってきて学校を見る。
これが750mか。1.5kmはさらに倍。
行けるかなあ、が、行けそうだ、という気にはなってきた。
実際に歩いてみるのって、大事だな。
係員が言ってた。
「可能なのであれば、水平避難がいいです」
そう、可能だと判断できるのであれば。

津波到達線の境界上に神社が多いのは、神様を少しでも高いところに祀ろうとする人間心理なのだろうと思う。
そして、できれば近いところに祀りたいという心理とのせめぎあいの結果だ。
身近なところに勧請しては、浸水するたびにより高いところへと設置される。
そういう歴史が長い神社ほど、より安全でかつ身近な場所に設置される。
鳥居が遠くから見えるくらいに。
そして、祭とは「防災訓練」なのだそうだ。
語り部がいなくなっても、石碑が流されても、私たちは何らかの形で、防災を受け継いでいる。
それに気づけるかどうかだ。
weathernews.jp

小学校校庭
立派な校舎ですね、と言ったら、バブルでしたから、と返ってきた。
屋上にあった屋根より高い独特な意匠(三角アーチ)はただのデザインだったが、あれが目印になって救助ヘリに見つけてもらったのだそうだ。
そうか、バブルも悪いことばかりじゃない。
泡だったお金を地域の防災に使おうと思った先人は、ほんとうに過去の災害を知っていたのだと思う。
(まあ建替の時に移転すべきだっただとも思うけどそれが当時の折り合い点だったんだろなと思う)
管理棟で販売していたガイドブックがよくできていて、200円だったので購入。
このお金が少しでも遺構管理に役立ってくれればと思う。